kmizuの日記

プログラミングや形式言語に関係のあることを書いたり書かなかったり。

Qiita記事「エンジニアの"有害な振る舞い"への対処法」への強烈な違和感

 最近、Qiitaで話題になってそこそこバズった(?)記事に、

qiita.com

 がありました。これ、最初は一読して凄いまともなことばかり書いているように見えましたが、一方で何か妙な違和感がありました。それは、私がいくつかの振る舞いについて思い当たりがあるせいではないか?と考えてみましたが、反省するところがあるなと思いつつも、何かが変だと感じていました。今朝、違和感の理由がわかった気がするので、書いておきたいと思います。

 一番大きな問題は、「有害な振る舞い」といいながら、客観的に観察できる行為ではなく、主観的に行為の意図を勘繰っていることです。

 そもそも、著者様は

私個人の経験に基づくため定性的かつ主観的な意見にはなりますが、メガベンチャーにて8年間様々なチームメンバと開発業務に携わりながらスクラム開発の各役割を1年ずつ、それからミドルマネージャーを2年経験し、さ> らに周辺チームや他部署の同期、社外コミュニティなどでの事例もいろいろと見聞きしてきたうえで、現在は2社目で開発部門責任者をやっており、それなりに蓄積されている情報量は多いと思っております。

 と書いておられます。そこから、これらの情報が著者様本人あるいは周囲の知人・友人から寄せられた苦情に基づいているであろうことは推察できます。それ自体は問題ないのですが、書き方が「そういう被害を受けた」と思っている側の主観的な認識に終始しているのです。たぶん著者ご自身が「そう思った」か、苦情を申し立てた誰かが「そう思った」んでしょう。

 しかし、苦情や愚痴の類において、報告した側は自分の悪い点は過少に、相手の悪い点を過大に言い募る傾向があります(これは人間心理として自然なことですが、その類のことをまんま受け取るのは、もしマネージャ―ならまずいでしょう)。あるいは、嫌いな人を排除したい人が「一見客観的な風を装う」こともあります。

 その「自分や誰かが嫌に思った」ケースの集積である(と思われるので)ので、有害な振る舞いにフォーカスしていると一見客観的な言い方をしつつも、相手の悪い意図を推し量っていることになったのだと思います。

 当てはまるかもしれない当人が自省するだけなら良いのですが、「自分は悪くない」と普段から思っている人は、下手をしなくても「この人は有害な振る舞いをしている」と、レッテル張りをするのに使うでしょうし、実際そういう反応が出てきています。そのような使われ方は本意ではない、と書いていますが、相手の意図を邪推するタイプの言説ですから、まあそういうことにも使われますよね。「言いたいこと」と著者が主張していることがらと、「実際に言っていること」がずれすぎているという感覚です。

 例を挙げましょう。「チームの創造的な議論を阻害したり他者の時間を奪う」の中にある

他者の話に割り込んで自分の意見を差し込む

 これは確かに一見もっともです。会議で誰かが話している時に割り込むのは、相手自体に問題がなければ悪いことでしょう。しかし、現実はそうでもありません。

 私自身経験があるのですが、上司(あるいは特定のメンバー)が延々と自分の話したい議題を話し続ける(会議の時間を食い潰している)こともあります。「延々と自分の話したい議題を話し続ける」から「割り込んで自分の意見を差し込む」ことがあるのですが、果たしてこれが悪いことかはその場にいる誰かでないとわからないことでしょう。もちろん、「延々と自分の話したい議題を話し続ける」も私の主観なので、正当性も怪しいものですが、ともあれ元の主張が客観的に正しいかは別問題です。

 ここで、もし本当に中立的であれば、この対になる自分の話したいことを延々と話すというアンチパターンが本来見えて来るはずなのですが、それはありません。

 別のところについても言及してみましょう。

自分が完全に納得した状態になるまで他者を操作しようとする

 このカテゴリに書かれていることは、相手に問題がなければ駄目なことが多いでしょうけど、観察していて、「話が通じない人ばかりでイラっとして発言したのではないか」とか「上司がむしろまずい振る舞いを続けているときに感情的になった」と思われるケースも見ています。もちろん、こういう時に攻撃的な言動をするのはいかに理由があっても駄目なのですが(コミュニケーションでは抑えられるなら攻撃的意見を控えた方がいいのは当然ですよね)、まずい振る舞いを続けているのがむしろ相手であったときに、どう振る舞うのがいいかは難しい問題です。

 他にも色々あるのですが、

言語化能力が低いのに他者に負担をかける形で自分の気持ちや意見の内容を察してもらおうとする

 はやはり主観ですよね。むしろ、言われた方の理解力が低い(あるいは技術力が著しく低いので、言っていることの意味がわからなかった)ことが問題だったのかもしれません。この場合、どちらが悪いかも場合による話であって、理解力が低い側から見て、「意見の内容を察してもらおうとする」と見えたのかもしれません。いずれにせよ現場を見ないとわからないことです。

急に議論の参加に消極的になり、気持ちを察してもらおうとする。察すること無く決められたチームのルールは守ろうとしない

 これも妙な話です。記事の著者はそう見えたのかもしれませんが、やはり相手の意図を邪推しています。議論の参加に消極的であるといっても、議論の雰囲気が悪い(あるいは進行がまずい)ので、消極的になった可能性もあります。「察すること無く決められたチームのルール」と書いてありますが、「明示されたチームのルール」を守らないのはまずいに決まっています。ただ、ルールが極めてまずかったが取り合ってもらえなかったので、あえてサボタージュをしたのかもしれません(私はさすがにサボタージュの類はしませんが、エンジニア界隈だと時々いそうだとは思いますし、 どうもそうだったんじゃないかなーというケースも散見します)。

 これもまあ、やっぱりその場にいないと実情はわからないことが多いですよね。

 とまあ、ほとんどの項目がそのような感じで、「行為者の意図の邪推」が入っています。こういうのはまさにチームに不和をもたらす原因になるわけで、 「被害を受けた」と思っている側に「これは私が悪いのではなかった!相手が難しい人だったんだ」という風に使われるのは明白でしょう(はてなブックマークなどを見てもそういう反応があります)。

 最後に、(現在は削除されたようですが)ASDなどの発達障害への言及も極めてまずい感じを受けましたが、全体的に「一見中立的な問題提起をしている」ように見えながら、その実「行為より意図」を問題にしているという点で、微妙な印象を受けざるを得なかったということは書いておこうかと思います。

 というか、毎回意図を邪推している辺り、振る舞い(あるいは行為)を問題にしていると言いながらがメインなのはかなり透けて見えますよね。筆者の主観がどうあれ、文章としてはそう読んでしまうといいますか。

2022/01/15 15:53追記

 結構反応があったみたいなので、補足。この記事自体は元記事の主張が根本的に間違っている、とは言っていません。ただ、外から見える行為そのものにフォーカスしたものより、相手の意図を邪推しているのが目立ち、「アンチパターン」を解説するのにそれはどうなのだろうというのが言いたい事です。コミュニケーションアンチパターンなら、外形的な行為(背景解説も含めて)に基づくべきだろうと感じます。

 有害な行為に焦点を当てたいとしたら、意図にフォーカスするのは変ではないの?と。