kmizuの日記

プログラミングや形式言語に関係のあることを書いたり書かなかったり。

結論は同意できても途中の論理展開がおかしい記事の話

 おはようございます。朝から非常に微妙な気持ちになる記事を見てしまったので、ちょっとそれについて書いてみたいと思います。対象は、

toyokeizai.net

というとても残念な記事です。本題に入る前に常日頃から思うのですが、結論自体は著者と別の理路から同意できなくもないが、途中の論理展開が破綻してる記事って多過ぎません?あくまで感覚ですが、ネットの一応まともな出版社の記事でも、1/10くらいの確率で誇張でなくそういう残念な記事に出会ってしまう気がします。今回の記事もそのような残念な記事の一つです。

 さて、この記事の主題は、昨今蔓延している古文不要論へのカウンターパートとして、

「現代の文章や言葉を理解するために、古文を勉強する必要がある」(原文より引用)

 ということにあります。筆者の気持ちはわかります。私自身、古文が全く役に立たないとは思っていないし、実際問題として、古文だけでなく歴史など「一見役に立たない」学問をバカにして、「実学」だけに偏った人が往々にして社会に関する無知をむき出しにしてしまう光景を私自身多々目撃しているからです。

 しかし、この主題を訴えるための例示が極めてまずいです。著者は言います。

しかし、この前提は間違っています。古文を勉強するのは、昔の文章を勉強することで、現代の文章を読んだり、日常会話で不便しないようにするためにやっているものです。

 この主張が正しいかはともかく、可能性としてはありえそうな話です。ただ、現実問題として「現国不要論」などというものが叫ばれていない、というかむしろ論理国語の道入とか含めて重視の風潮になってきていることを考えると(物語読解については不要論が根強くありますが、まあ別として)、例示するなら、現代文でなく古文を勉強していないとダメなものであるべきです。

 しかし、本文を見るとため息が出るばかりです。最初の例を見ましょう。

例えば、一つクイズを出しましょう。

現代において、物事が終わる時に「けりをつける」という言葉を使うことってありますよね。「Aさんとの関係にけりをつけてきた」みたいな感じで使いますね。

では、この「けり」って一体どういう意味なのか、みなさんは知っていますか?

これは実は、キックという意味の「蹴り」ではないんです。古文を勉強したことがある人なら、助動詞で「けり」という言葉があるのは知っているはず。古文の勉強でもよく、文章の中には、「〜にけり」のように、言葉の終わりに「けり」をつけることで「文の終わり」を示しているものがあったはずです。

 えーと、古文にその起源があるのはそうでしょうけど、別に現代文を普通に勉強していればわかる話ですよね。私自身、古文は熱心な方ではなかったし、「~にけり」みたいな話はすっかり忘れていましたが、別に「けり」の意味を知らなくても「Aさんとの関係にけりをつけてきた」は普通に「Aさんと縁を切ってきた」とかいう方向で普通に解釈可能ですよね。あるいはズブズブした男女関係だったら、別れ話かもしれません。いずれにしても関係に「決着をつける」という方向なのは見ればわかるでしょとしか言いようがない。現代でもちょくちょくは使う言い回しなのでなおさらです。

 また、別の話として、古文の「けり」を知っていたからといって、それが現代文の「けり」と同じかは一般には別問題です(当たり前ですが)。古文は現代文と各種文法が異なっているから古文なのであって、古文の解釈をそのまま現代文解釈に適用できると思っていたらむしろまずいでしょう。繋がっているのもあれば古文にはあるが廃れたものもあるわけですし。

 いずれにしても、この例示は「古文を勉強すべき」に説得力を与えていないのは確かです(現代文読解すら不要と主張する論者なら別かもしれません)。

 次の例を挙げましょう。

また、たとえばみなさんは、「あなたは小学生ですか」と言われたら、どのように解釈しますか?

まず考えられる解釈としては「質問」があると思います。12歳くらいの親戚の子供に対して、「ねえねえ、君は小学生かな? 中学生かな?」ということを聞いている場面で、「あなたは小学生ですか」と聞くと思います。

もう一つ、考えられる解釈があると思います。例えば会社で、ミスをした自分を上司が怒ってきています。「こんなミス、小学生でもなきゃしないだろう!」という意図で「あなたは小学生ですか」と言うことがあるでしょう。このような、答えがわかり切っているけれどあえて疑問のように聞くことで、強く相手にメッセージを伝える用法のことをなんというか、みなさんはわかりますか?

正解は、反語です。古文でも漢文でも、反語表現というのはよくあるものです。

正解は反語ですと書かれているわけですが、この用例でもっと多いと思われる「皮肉」という解釈がすっぽり抜けていますよね。いや、注意するという文脈なら反語かもしれませんが、上司が部下の能力について嫌味な悪口を言うなんてのは珍しくもないわけで(幸い、そういう会社にはいなかった、わけでなく……就職して最初の会社だけはそうでしたが)、社会でよくある話としては「皮肉」の方が多いんじゃないかなとすら思います。用例としても極めて多いですし。

いやまあ、反語か皮肉かは本題じゃないのでおいといて「反語」は現国で習いますし、皮肉は……習ったか忘れましたが、社会で普通に生きてりゃわかるでしょう。古文関係ないじゃん、と。むしろ現国で十分じゃない?という印象すら与えかねません。

一応、

この反語という表現をきちんと理解するためには、古文の勉強をしておいた方が頭に入りやすいです。

とは書いてありますが、現国で「反語」の意味を教えるのだと不十分だという根拠にはならないですよね。筆者にとってはそうだったのかもしれませんが。

最後の方に至ってはもうさっぱりわかりません。

何が言いたいのかというと、現代語の方が、古文より難しいのです。昔はしっかりと助詞や助動詞を使って表現されていた言葉が、今はもうそれを使わなくても表現できるようになってしまっていて、昔より日本語が難しくなってしまっているのです。

ここで一つ、想像してみてください。もし、古文の勉強を一切しないで、現代の言葉だけを勉強していて、「質問の形になっている表現で、答えがわかり切っていることを聞いて、『〜だろうか? いやない』なんて訳す場合がある」と習ったとして、使いこなせるでしょうか? おそらくは、多くの人は使いこなせないと思います。(ちなみにこの「使いこなせるでしょうか?」も反語です)

普通に使いこなせますがという回答しかないなと思うわけです(ちなみに私の古文の成績はまあ真ん中くらいでそんなに出来の良い生徒ではありませんでした)。周りの中高時代の同期に聞いても、確信できますが同様でしょう。そもそも、反語や皮肉的な表現なんて現代でいくらでも登場するわけで、それらの理解が抜けてたら社会で生きていくのにむしろ困るじゃないですか。

例えば人から「本当にそう思いますか?」と言われた時に、「はい、本当にそう思いますよ」なんて答える人っていますよね。

多くの場合、「本当にそう思いますか?」というのは反語で使われていて、「本当にそう思いますか? あなたは、本当には、そう思っているはずがないですよね?」という意図でつかわれています。

それはそうですが、このような「会話における含意がわからない」は発達障害ASD)を語るコンテキストで出てくる話だし、勉強熱心な発達障害的な特性を強く持つ人がこの類の反語がわからない(言葉どおりに取ってしまう現象)は実証されている話でもあるので、古文を勉強してればそれがわかるというのはまずありえないでしょう。

このように、古文の勉強を疎かにしてしまうと、現代語の解釈がうまくできなくなってしまうのです。

このように、古文の勉強を熱心にしていても、読者に対してツッコミどころ満載の文章を書いてしまうことはあるのです。と皮肉を書いて締めにしたいと思います。

このブログの中ではとびっきりにトゲトゲしい批判の仕方になりましたが、商業に流通するメディアに記事を載せる人は最低限の説得力をもたせる文章を書いて欲しいと願うばかりです。それに何が必要かはわからないのですが、個人的な感想で言えば「論理」ではないかなと思います。この文章だって見直すときに、自分の書いた例示が主題をサポートする(つまり例示から論理的に主題を導き出せる)かを検証できていればこうならなかったわけでして。